阪神淡路大震災30年
2025/01/17
阪神淡路大震災30年
1995年1月17日午前5時46分。
私は寝屋川社宅で休み明けの宿題を整理していた時、
突然の大きな揺れに見舞われました。
生まれてからこのかた、地面が数分も揺れ動く経験は
したことがなく、尋常な地震でないことはすぐ察知しました。
家のことをパートナーに任せて、社宅ガレージに向かうと、
先輩から「電車は動かんぞ。車で行け」と教えてもらい、
国道1号線を必死に会社へ向かったことを思い出します。
信号はどこも赤の点滅で、大きい交差点では
警官が立ち交通整理を始めていました。
あちこち無人のビルから、非常ベルが不気味に鳴り響いて
います。
会社にたどり着いても鍵を解除するものが到着せず、
私は1時間ほどいらいらしていました。
8時過ぎようやく鍵当番が到着すると、本社からの
電話が方々鳴りっぱなしです。「店の前で開店できない
ことをひたすら謝るように」との指示でした。
ぱらぱらと同僚・後輩がたどり着きだした9時過ぎ、
TVをつけるように指示しました。
そのときに、阪神高速道路が数百メートルにわたり
全壊している姿を見て、ようやく地震が東海や北陸、
まして琵琶湖でもなく、都市が機能停止していた
神戸であることを認識した次第です。
そのあとは、悪夢の中で仕事をしているようでした。
当日も、あくる日からも、刻々と入ってくる情報は、
後輩・友人・知人の行方不明、出身大学の被害、
ビル倒壊、長田区の大火災、大規模な土砂崩れ。
悲報ばかりが届き、自らの無力さと天災の恐ろしさを
痛感した大災害です。震災で犠牲になった方々へ
改めて哀悼の意を捧げます。
今は、見渡す限り復興を成し遂げ、光を取り戻した
阪神・淡路地区ですが、これ以上に光り輝く街で
あり続けてもらいたい。
神戸を第2の故郷とする者の、セピア色の悲しい記憶と、
願いの一節でした。